どうやったら礼拝に集中できるか?

サラートは善行へのプログラミングです。一般的にイスラームにおけるサラートは、日本語で礼拝と訳されます。しかし礼拝はサラートの正確な意味を完全に反映していません。なぜなら礼拝とは神様を拝むこと、敬うことを意味しますが、サラートとは単に神様を拝むこと、敬うことにとどまりません。サラートとは唯一神のアッラーに感謝すること、彼の導きを求めること、そして悪行を遠ざけ、私たちの心や魂を洗濯すること、そして善行へのプログラミングです。しかし「今から善行へのプログラミングに行ってくる」と言っても、誰も理解してくれないかもしれません。だから便宜上礼拝という言葉でかまわないわけです。ただしサラートの意味は礼拝以上の含みがあることを忘れないでいただきたいのです。

プログラミングとは、コンピュータへの指示を書くことです。コンピュータに「こうやって動いて欲しい!」と伝えるための行動のことを「プログラミング」と言います。もし人間の脳をコンピュータと例えるならば、人間の脳はこの世で最も高度で洗練されたコンピュータです。私たちはアッラーの最高の被造物なのです。クルアーンの95章4節によると「ラカド・ハラクナル・インサーナ・フィー・アフサニ・タクウィーン」(本当にわれらアッラーは、人間を最も美しい姿に創った)とあります。人間に伝えるべきプログラムが「アッラーの言葉」であるクルアーンです。クルアーンの言葉のように考え、動くように私たちの脳と心に指示する方法が、サラートなのです。

心理学者によると、私たち人間は自分の意識を完全に管理することはできないと指摘します。もちろん私たちの体は100%私たち自らが管理できます。例えば右手を上げようと思えばできます。下ろそうと思えばできます。しかし意識は100%できないのです。あちらへとこちらへと意識が動くのです。皆さんも経験があるのではないでしょうか。サラートをしている途中、集中できず意識があちこちへと動いたという経験です。

例えば、ビジネスマンであれば、契約のことが気になる、いくら儲かるとか支払いのこと、車のオークションのこと、会議の約束のことなどに意識が行きます。家にいる奥様であれば、今日は家族のために何の夕食を作ろうかと意識が行きます。さらにはサラート中、子供が騒ぎ始め、赤ん坊が鳴き始めると、そちらに気を取られてしまいます。学生であれば、授業のこと実験のことに意識が行きます。学校のテスト後にサラートをするときは、サラート中にテストの解答について意識が行きます。「問い2の選択肢はBではなくAだったかもしれないとか」思い出すのです。そうこう考えているうちに、サラートが終わってしまうのです。

それで今何ラカート目だったのか忘れてしまうのです。3ラカート目だったかな?4ラカート目だったかな?サラートのときに、意識があちこち動くことは普通に経験することです。

ではなぜ意識はゆらゆらするのか?なぜなら私たちの意識は空っぽだからです。一方で意識は空っぽではいられないからです。だから考えが行ったり来たりするのです。ムスリムはサラートで唱える言葉を記憶しています。スーラ・アル・ファーティハ、その他いくつかのスーラもしくはアーヤです。あまりに機械的に記憶しているので、どんなに眠たくても、または起きて寝ぼけた状態でも、スーラ・アル・ファーティハは高速で読むことができるのです。だから脳の中でもほんの一部しか機能させなくてもいいようになっているのです。考えなくても出てくるのです。私たちは、ほとんどがアラブ人ではないので、クルアーンの音を暗記しただけでは意味がわかりません。意味を意識しないので、そこでは意識があちこちへ動く可能性が大きいわけです。

だからアラビア語で読み上げる部分の意味を1つ1つ理解していくことが大切になってきます。もしベンガル語が母語であるならば、ベンガル語の翻訳を思い出してください。もし英語が母語であるならば、英語の翻訳を思い出し、もし日本語なら日本語の翻訳を思い出すことが必要です。例えば、日本語の場合、⑴ビルミッラーヒッラフマーニッラヒームは「慈悲あまねく慈悲深いアッラーの御名において」となります。⑵アルハムドゥリッラーヒ・ラッビル・アーラミーン「全存在の主アッラーにすべての称賛あれ」⑶アッラフマーニッラヒーム「慈悲あまねく慈悲深いお方」⑷マーリキヤウミッディーン「最後の審判の日をつかさどる方です」⑸イイヤーカナ・アブドゥ・ワ・イイヤーカ・ナスタイーン「(わたしたちは)あなただけに仕え、あなただけに助けを求めます」⑹イフディナ・スィラータル・ムスタキーム「わたしたちをまっすぐな道に導いてください」⑺スィラータッラズーナ・アンアンタ・アライクム・ガイリル・マグドゥービ・アライヒム・ワラッダーリーン(その道とはあなたが恵みを与えた人びとの道であり、怒りをかうこともなく、迷ってもいない人びとの道です)

スーラ・アル・ファーティハ、その他いくつかのスーラもしくはアーヤをアラビア語で読むと同時に、自分がわかる言葉で意味を翻訳することで、心があちらこちらに動くことを防ぐことができます。なぜなら、意味を思い出すという行為によって、意識を集中させることができるからです。もちろんこれを何週間、そして何ヶ月も続けると、これもまた機械的に暗記してしまうことになります。しかしアラビア語だけのときと比べれば、アラビア語で読み、その翻訳を心で読み、その意味を考えることで心がより集中することには間違いはずです。

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