宗教間の相互理解とは何を意味しているのだろうか。例えばイスラーム教徒(ムスリム)は自らが信じるクルアーンが正しいと考え、キリスト教徒は聖書が正しいと考える。この前提に立てば、両者が正しいと考えるクルアーンと聖書との「共通点に合意すること」が、異なる宗教間の相互理解につながるのではないだろうか。
(1)クルアーンと聖書の精読分析により、両宗教の共通点として1)神の唯一性、2)イエスは神でもなく神の子でもなく人間の預言者、3)イエスの十字架処刑はなかった、4)預言者ムハンマド、5)礼拝とお清め、6)断食、7)定めの施し、8)女性の服装、9)豚肉食の禁止、10)血を飲むことの禁止、11)死肉の禁止、12)飲酒の禁止、13)利子の禁止など多数あることがわかった。
(2)神は唯一であることがわかった。例えば、クルアーン112章1節には、「彼はアッラー、唯一なり」とあり、マルコによる福音書12章29節には、「イエスは答えられた、第1のいましめはこれである、イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」とある。
(3)イエスは神の子ではないことがわかった。例えば、クルアーン112章3節には、「(アッラー)は産まないし、生まれたのではない」とあり、ルカによる福音書22章70節には、「彼らは言った。では、あなた(イエス)は神の子なのか。イエスいわく、汝らはそのように言う」とある。「神の子」は敬虔な人の比喩表現である。例えば、「神の霊によって導かれる人は皆、神の子たち(sons/children of God)なのです」(ローマの信徒への手紙8章14節)「肉」(罪へ傾き易い人間的傾向)に従うのではなく、神の霊によって導かれる人(神の言葉に従う人)は全員、神の子たちと呼ばれた。
(4)イエスは神ではなく、人間の使徒(預言者)であることがわかった。例えば、クルアーン112章2節によると、「アッラーは自存される」ので、人間は神になることはできない。クルアーン5章75 節には、「マルヤムの子マスィーフは、ひとりの使徒にすぎません。かれ以前にも使徒たちがいて、去っていったのです。かれの母は誠実な女性でした。そしてかれら両人とも(普通の人間と同じく)食べ物を食べていました」とある。聖書の使徒言行録2章22節には、「イスラエルの人たちよ、聞きなさい。あなたがたがよく知っている通り、神によって認められた人間ナザレのイエスは、神が彼を通して、あなたがたの中で行なわれた数々の奇跡と驚異と印により、神からつかわされた者である」、ヨハネによる福音書14章24節には、「あなたがたが聞いている言葉は、私(イエス)の言葉ではなく、私をつかわした父の言葉である」とある。
(5)イエスの十字架処刑はなかったことがわかった。例えば、クルアーン4章157節には、「アッラーの使徒、マルヤムの息子マスィーフ・イーサー(イエス)を殺したという言葉のために(心を封じました)。でも、かれ(イーサー)を殺したのでもなく、かれを十字架のはりつけ刑にしたのでもなく、かれらにそう見えたまででした」とある。聖書のコリントの使徒への手紙一15章42- 44節によると、復活した体は霊化しているが、「わたし(イエス)の手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」(ルカによる福音書24章39-40節)とあり、イエスが霊化(復活)していなかった(磔刑がない)ことがわかった。また、聖書のヨハネによる福音書20章1節には、「さて、一週の初めの日(日曜日)に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアが(イエスが葬られているとされる)洞窟墓に行くと、洞窟墓から入り口の石がとりのけてあるのを見た」とあり、その目的は「彼(イエス)のもとに行って聖油を塗るため」(マルコによる福音書16章1節)とある。しかしキリスト教にもユダヤ教にも死人に聖油を塗る教えはない。つまりイエスが生きていたからこそ、洞窟墓から入り口の石がとりのけてあったのであり、イエスが生きていたからこそ、マグダラのマリアは聖油を傷ついたイエスに塗ることで彼を癒そうとしたのである。
(6)聖書には預言者ムハンマドの到来が予言されていることがわかった。例えば、申命記18章18節に、ムハンマドが「あなた(モーセ)のような預言者」として記され、またヨハネによる福音書14章16節には、ムハンマドが別名「もう1人の助け主」として記されている。
(7)礼拝ついて、お清めと平伏礼の共通点がわかった。例えば、クルアーン5章6節には、「信仰する人よ、あなたがたが礼拝に立つときは、顔と両手を肘まで洗い、頭を拭いて両足を踝まで洗いなさい」とあり、聖書の出エジプト記40章30-31節には、「彼はまた会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗うためにそれに水を入れた。モーセとアロンおよびその子たちは、それで手と足を洗った」とある。またクルアーン3章43節には、「マルヤムよ、あなたの主(アッラー)に従順でありなさい。そして屈折礼しなさい。平伏礼するものと一緒に平伏礼しなさい」とあり、聖書の創世記17章3節には、「アブラム(アブラハム)は、顔をひれ伏して、神は彼に言われた」、民数記20章6節には「そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行って顔をひれ伏した。すると主の御光が彼らに現れた」とある。
(8)断食があることがわかった。クルアーン2章183節には、「信仰する人たちよ、あなたがた以前の人たちに書き記されたように、あなたがたに斎戒(断食)が書き記されました」とあり、聖書のマタイによる福音書4章1-2節には、「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 そして40日40夜、断食をし、そののち空腹になられた」とある。また、出エジプト記34章28節には、「モーセは主と共に、40日40夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十戒を板の上に書いた」とある。
(9)定めの施しがあることがわかった。クルアーン9章60節には、「施しは貧者、困窮者、これ(施し)を管理する者、心が(真理に)傾いてきた者のため、身代金や負債の救済のため、アッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである」とあり、年収余剰分(貯蓄)の40分の1を施しとして供出する。聖書の申命記14章22節には、「あなたは毎年、畑に種をまいて獲るすべての産物の10分の1を必ず取り分けなければならない」とある。
(10)女性の頭衣があることがわかった。クルアーン24章31節には「信者の女たちに言いなさい。かの女らの視線を低くし、貞節を守れ。外に表われるものの他は、かの女らの美(Zeenah)を目立たせてはならない。それからヴェイル(Khumr)をその胸の上に垂れなさい」とある。「美(Zeenah)」とは基本的に自然美と服装美(服装がかかる体の部分)をさしている。女性の自然美と服装美を目立つようにしないことが教えられる。例えば、「結婚を望めない産児期の過ぎた女は、その装飾(Zaanah)をこれ見よがしに示さない限り、外衣を脱いでも罪ではない」(クルアーン24章60節)、「アーダムの子孫よ、どこのマスジドでも清潔な衣服(Zeenah)を体につけなさい」(クルアーン7章31節)とある。「外に表われるものの他」とは、顔と両手をさしているというのがイスラーム学者のイジュマー(コンセンサス)である。「アーイシャが伝えるところによると、アブーバクルの娘アスマーが薄着でアッラーの使徒の家に入ると、かの女から視線をそらせ言いました。アスマーよ、初潮を迎えた女性はこの部分を除いてかの女の体を見せることはよくない。そして彼は顔と両手をさしました」(スナン・アブー・ダウード33書4092番)なので「外に表われるものの他は、かの女らの美(Zeenah)を目立たせてはならない」とは「顔と両手の外は、かの女らの自然美と服装美を目立たせてはならない」という解釈になる。聖書のコリントの信徒への手紙一11章6節には、「もし女が頭に覆いをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったり剃ったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、覆いをかけるべきである」とある。
(11)豚肉食の禁止、血を飲むことの禁止、死肉(屍)食の禁止があることがわかった。例えば、クルアーン2章173節、5章3節、6章145節、16章115節に豚肉食の禁止、血を飲むことの禁止、死肉(屍)食の禁止が記されている。「かれ(アッラー)は、あなたがたに死肉、血、豚肉、そしてアッラー以外の名を唱えられ(屠畜された)ものだけを禁忌としました。ただし(生存の)必要に迫られ、(また)故意でもなく過剰でもない場合は、罪にはなりません」(クルアーン2章173節)。聖書のレビ記11章7-8節には、「豚、これは蹄が分かれており、蹄が全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、これらのものの肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。これらは、あなたがたには汚れたものである」とある。レビ記14章21節には、「すべて自然に死んだものは食べてはならない」、レビ記19章26節には、「あなたがたは何をも血のままで食べてはならない」とある。
(12)飲酒の禁止(禁忌)があることがわかった。クルアーン5章90節には飲酒の禁止があり、聖書にも、飲酒に関して多くの警告がある。例えば、レビ記10章9節;申命記29章6節;士師記13章4、7、14節;第1サムエル記1章15節;イザヤ5章11、22節;24章9節;28章7節;29章9節;ミカ書2章11節;ルカによる福音書1章15節など多数ある。箴言20章1節には、「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれ者とする、これに迷わされる者は無知である」、箴言23章29-31節には、「災ある者は誰か、憂いある者は誰か、争いをする者は誰か、うるさい者は誰か、理由なく傷をうける者は誰か、赤い目をしている者は誰か。酒で夜をふかす者、混ぜ合わせた酒を求める者である。酒は赤く、杯の中に泡立ち、なめらかにくだる、あなたはこれを見てはならない」、民数記6章1-3節には、「主はモーセに言われた、イスラエルの人びとに言いなさい、男または女が、ナジルとして身を主に聖別する特別な誓願をするならば、ぶどう酒と発酵酒を断ち、ぶどう酒からできた酢、または発酵酒からできた酢を飲んではならない」とある。キリスト教のホームページサイトhttps://www.gotquestions.orgから抜粋すると、「クリスチャンが絶対に避けるべきことは、酒に酔うこととそれに依存するようになることなのです(エペソ5章18節;第1コリント6章12節)。酒に酔うことと依存することは罪です。(中略)アルコールとその影響についての聖書の警告、大量に飲むことになる誘惑、他の人をつまずかせる可能性、などを考えると、クリスチャンは、完全にアルコールを避けるのが普通は一番だと言えるでしょう」とある。
(13)利子の禁止があることがわかった。クルアーン2章275節、3章130節、4章161節には、利子の禁止が記されている。聖書の申命記23章19節には「兄弟に利子を取って貸してはならない。金銭の利子、食物の利子などすべて貸して利子のつく物の利子を取ってはならない」とある。