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イスラームの視点から見るとイエス(イーサー)はムスリムです。また偉大なる預言者であり使徒という位置付けになります。ただしイエスは神性を持った神の子ではありません。ここがキリスト教徒の信念と合わない点です。もう1点は、キリスト教徒はムハンマドを最後の預言者として認めません。イスラームとキリスト教には多くの共通点がありますが、この2点は乗り越えるのが困難な点です。つまりキリスト教徒はイスラームの最も重要な言葉「ラーイラーハイッラッラー、ムハンマダンラスールッラー(アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である)」に合意できないのです。
しかし、聖書を読むと「アッラー以外に神はなく、ムハンマドは来るべき預言者である」ことが記されています。時間の制約もあるので、本日は後半部分の「聖書に予言されたムハンマド」に焦点を当てます。ではなぜこんなことをするのでしょうか?クルアーン7章157節に次のように記されています。
「かれらは文字を知らない預言者、使徒(ムハンマド)に追従する人たちです。かれ(ムハンマド)はかれら(啓典の民)の持っている律法と福音の中に記されて見出される人です」とあります。つまり聖書の律法と福音書の中にムハンマドについて記されているとクルアーンは言っているのでそれを証明するためにお話しするのです。
もう1つの理由があります。それは昨今のエルサレム帰属問題ついて緊張が高まっているからです。これは明らかにムスリム世界に対する挑発であり、宣戦布告をしているわけです。そんなことは誰にでもわかるのです。だからこそもう一度、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教の関係をムハンマドという共通点から見直してみたいと思ったからです。
預言者ムハンマドの出現は、ユダヤ教およびキリスト教両派がもれなく聖書正典と認める旧約聖書の申命記18章18節に次のように予言されています。「わたし(神)は彼らのためにその兄弟たちの中から、あなたのような預言者を起して、わたし(神)の言葉をその口に授けよう。彼はわたし(神)が命じるすべてのことを必ず彼らに話すであろう」とあります。重要なポイントは「その兄弟たちの中から、あなたのような預言者を起して」にあります。キリスト教徒によると「あなた」はモーセを示しており「モーセのような預言者」はイエスに他ならないと解釈します。では、どのようにイエスがモーセのようであるのかとたずねると、両者は共に預言者でありイスラエルの民だと言います。ところが同じ類似点は、イエス以外の預言者にも当てはまります。例えば、エゼキエル、イザヤ、ソロモン、ダニエル、ホシヤ、ヨエル、洗礼者ヨハネなどは、預言者でありイスラエルの民です。だから「モーセのような預言者」を1人に特定できません。さらに申命記34章10節によると「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった」とあるので、そもそもイエスは、モーセのような預言者になり得ません。
では、一体誰が「モーセのような預言者」なのでしょうか?「その兄弟たちの中から」に手がかりがあります。兄弟だけれどイスラエルの民でない、となるとモーセのいとこ、でもイスラエルの民ではない預言者ムハンマドが有力な候補者と考えられます。事実、モーセとムハンマドを比較すると、少なくともイエスにはない6つの類似点をあるのです。第1にモーセとムハンマドは両親の子として生まれましたが、イエスは父親なく生まれました(マタイによる福音書1章18節)。第2に、モーセとムハンマドは死後、再び地上に現れませんが、イエスの再臨については聖書に多く記されています(例えば、ヨハネによる福音書14章1-3節、マタイによる福音書16章27節、24章30節)。第3に、モーセとムハンマドは結婚して子もいましたが、イエスは結婚せず子もいませんでした。第4に、モーセとムハンマドはそれぞれ律法、シャリーアという新たな法を導入しましたが、イエスはモーセの律法を受け継ぐためにつかわされました(マタイによる福音書5章17-18節)。第5に、モーセとムハンマドは法の執行者でしたが、イエスは「わたしの国はこの世のものではない」と言って、法を執行することはありませんでした(ヨハネによる福音書18章36節)。第6に、最終的には共同体の長となったモーセとムハンマドと比べて、「自分の民は彼(イエス)を受けいれなかった」とあり、イエスは最後まで共同体の長になることはありませんでした(ヨハネによる福音書1章11節)。このような点から、イエスはモーセにほとんど似ておらず、ムハンマドが「モーセのような預言者」にふさわしいことがわかると思います。
また申命記18章18節には「わたし(神)の言葉をその口に授けよう」とあり、ムハンマドと関係していることがわかります。ムハンマドが最初の啓示を受けたとき、アッラーから「読みなさい」と言われて「読めません」と答えました。彼は文字の読み書きを知らず、アッラーは「口に」啓示を授けたと考えられます。クルアーンはアラビア語のキラア(詠む)から派生した言葉で、「読誦されるもの」という意味ですが、「口に啓示」「読誦が可能」とも解釈できるのです。
別の証拠もあります。ヨハネによる福音書14章16節には、ムハンマドが別名「助け主(Comforter)」として予言されています。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父はもう1人の助け主を送って、いつまでもあなたがたと共に おらせて下さるであろう」とあります。キリスト教の学者は助け主とは聖霊のことであるという立場を堅持します。しかし聖書によると、助け主と聖霊は関係ありません。ヨハネによる福音書16章7節によると、「わたし(イエス)が去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それ(助け主)をあなたがたにつかわそう」とあります。ここには「助け主」がイエスの後にくると記されています。でも、聖霊はイエスの前から存在しました。ルカによる福音書1章41節によると「エリザベスがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベスは聖霊に満たされた」とあります。エリザベスの子は洗礼者ヨハネ。つまり、イエスより前に生まれた洗礼者ヨハネのときから聖霊が存在したことになるので、イエスの後にくる「助け主」は聖霊ではないことがわかります。
ではイエスの後にくる「助け主」は誰なのでしょうか?本来であれば、「助け主」の語源にまで遡ると答えが見えてきます。ところが、イエスの母語であるアラム語で書かれた単一の聖書原典が不明なので、語源をつきとめることができません。問題解決として逆に発想します。つまり、ムハンマドの語源から助け主の語源を類推するのです。なぜそんなことが可能なのでしょうか。理由は2つあります。第1に、単一のアラム語聖書原典がない以上、聖書の用語や解釈も1つではないはずだからです。第2に、前に述べた「あなたのような預言者」が、ムハンマドを示すことが論証されたからです。
クルアーン61 章6節はムハンマドを別名「アフマド」と呼んでいます。アフマドはアラビア語名詞のハムドゥ(称賛)もしくは動詞のハミダ(称賛する)の派生形で、その意味は「称賛に値する者」です。「マルヤムの子イーサーが、こう言った時を思い起せ。イスラエルの子孫たちよ、本当にわたし(イエス)は、あなたがたに(つかわされた)アッラーの使徒である。わたしより以前に律法を確証し、またわたし(イエス)の後に来る使徒の吉報を与える。その名前はアフマドである」アラビア語の「アフマド(称賛に値する者)」を聖書正典の言葉であるギリシア語に訳すとペリクリトス(PERIKLYTOS)になります。一方、聖書によると、英語の「Comforter」はギリシア語のパラクレトス(PARAKLETOS)が語源です。両単語は音声的に類似していることがわかります。聖書には多くの写本が存在し、翻訳も長年にわたって細かい改訂を重ねてきたことを考えると、ペリクリトス→パラクリトスの転訛(てんか)が生じた可能性が高いのです。
また、パラクレトスには「助け主」の他に「執り成し」や「唱道者」という別の意味もあります。ムハンマドの言行録によると、最後の審判のとき、多くの預言者の中でも、ムハンマドだけがアッラーと人間との間の「執り成し(シャファーア)」を認められると記されているので、ペリクリトスであれパラクリトスであれ、ムハンマドが「助け主」と推断できるのです。また、ムハンマドはイエスの後に来たので、「わたし(イエス)が去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこない」というヨハネによる福音書の言葉と矛盾しません。
さらに、一部アラム語の聖書原典は見つかっています。例えば、ベブライ語とアラム語の死海文書(紀元前3世紀〜紀元1世紀)、数年前にトルコで発見されたアラム語のバルナバスの福音(紀元6世紀前半)は有名です。教会はこれらアラム語の書を正典として認めていませんが、死海文書に記されたイザヤ書42章1節には次のようにあります。「わたしの支持するわがしもべのアフマド、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊魂を彼に与えた。彼はもろもろの異邦人(非ユダヤ人)に道をしめす」とあります。またバルナバスの福音の英語訳書89ページと97ページには、「ムハンマドは神の使徒」とはっきり記されています。
まとめると、聖書の申命記18章18節には、ムハンマドが「あなた(モーセ)のような預言者」として記され、またヨハネによる福音書14章16節には、ムハンマドが「もう1人の助け主」として記されているのです。そして、クルアーン7章157節の「かれ(ムハンマド)はかれら(啓典の民)の持っている律法と福音の中に記されて見出される人です」という言葉は正しいということが証明されたのです。だから関係が悪化している今こそ、キリスト教徒とユダヤ教徒に対するダワー(イスラームへの招待)が大切であり、これまで以上に必要とされていると私は思うのです。