イエスは神でも神の子でもない

クルアーン3章64節によると、「クル、ヤーアハルルキターブ(言いなさい。啓典の民よ)タアーラウイラーカリマティン、サワーインバイナナーワバイナクム(わたしたちとあなたがたとの間の共通のことばに来なさい)アッラーナアブダイッラッラー(わたしたちはアッラーにだけ仕え)、ワラーヌシュリカビヒーシャイアン(何ものをもかれに配しない)ワラーヤッタキザバアドナーバアダンアルバーバンミンドゥーニッラー(またわたしたちはアッラーを差し置いて、外のものを主として崇ない)ファインタワッラウ(それでもし、かれらが背き去るならば)ファクルシュハドビアンナームスリムーン(言いなさい、わたしたちはムスリムであることを証言する)」とあります。

ここにイスラームと他の宗教との関係が記されています。つまり共通の言葉を尊重するということです。その最初の共通点とは、アッラーナアブダイッラッラー(アッラーにだけ仕える)です。クルアーン112章1−4節には次のように記されています。クル・フワッラーフ・アハド(言いなさい。かれはアッラー唯一なり)アッラーフ・サマド(アッラーは自存され)ラムヤリド・ワラムユーラド(かれは産まないし、生まれたのではない)ワラムヤクッラフークフワンアハド(かれに比べ得る何物もない)とあります。この112章が本当の本物の神を見極める試金石です。この112章の条件が全てクリアされることが、ムスリムがそれを神と呼ぶための必要条件です。

同じ啓示は旧約聖書の申命記6章4節によると、ヘブライ語で読むとモーセは次のように言ったと記されています。「(シャマーイスーラエーロー・アドナイ・イラーハイノ・アドナイイハッド)聞きなさい、イスラエルの民よ、われわれの神、主は唯一の主である」と言っています。イエス・キリストは、最初の戒めは何かと聞かれたとき、モーセが言った全く同じフレーズを、そのまま繰り返しました。マルコによる福音書12章29節によると、「(シャマーイスーラエーロー・アドナイ・イラーハイノ・アドナイイハッド)聞きなさい、イスラエルの民よ、われわれの神、主は唯一の主である」と、これ以上ない明確さで神は唯一であることを言っています。

唯一の神の名前については、ムスリムはアッラーと呼び、キリスト教はゴッドとかロードとか呼びますが、実は聖書によると、神の名前はアッラーであることがわかります。マルコによる福音書15章34節によると、イエス・キリストが十字架に架けられてこう叫んだと記されています。「そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」とあります。イエスの言葉であるアラム語「エロイ」が聖書にそのまま残されています。その意味は「わが神」ですが、「わが」に相当するのがエロイのイです。これを除くとエローが残ります。その意味は神ですが、エッローとアッラーは発音とても似ていることがわかります。ゴッドという発音はエッローとは程遠いことがわかります。「エロイ、エロイ」とは「アッラー、アッラー」のことを指していたのです。どの聖書を選んでも、このエロイ、エロイ、ラマ、サバクタニが記されています。

1909年、8名のキリスト教神学博士によって共編されたスコフィールド聖書(オックスフォード大学出版会)によると、旧約聖書の創世記第1章1節「はじめに神(エローヒム)は天と地とを創造された」の脚注として、エローヒムの語源としてエルとアラーが記されています。Alahとあります。

「注1:エローヒム(Elohim)、エル(El)またはエラー(Elah)とは、3つの神位のうち第1位の御名(みな)で英語訳の「神」に相当し、力、強き者を意味するエル(El)と、アラー(Alah)から成り立つ複数一体名詞(uni-plural noun)で、宣言もしくは誓約によって自らを律する(つまり敬虔さを表現する)対象である」(スコフィールド聖書p.3)

だからイスラームにおいてもキリスト教においても、神は唯一アッラーという点で共通しているのです。

そしてクルアーン4章48節では唯一の神の他に神を信じることへの注意喚起がなされています。「(インナッラーハ・ラーヤグフィル・アンユシュラカビッ・ワヤグフィル・マードゥーナ・ザーリカ・リマンヤシャー)本当にアッラーは、かれに並置されることは赦しません。でもそれ以外のことについては、御心にかなう人を赦されるのです。アッラーに並置する人は、誰でも大罪を犯しているのです」とあります。同じ言葉はクルアーンの4章116節でも繰り返されています。イスラームではアッラー以外に他のものを神として崇めることは、唯一赦されない大罪なのです。

聖書においても同じ言葉が記されています。出エジプト記20章3−5節と申命記5章7−9節いわく「あなたはわたしの他に、何ものをも神としてはならない。あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」とあります。

だからクルアーン5章72節では、イエス・キリストを神とすることを強く批判しています。「アッラーがマルヤムの子マスィーフであると言う人は、間違いなく信仰を拒否しました。一方、マスィーフは言いました。イスラーイールの子孫よ、わたしの主であり、あなたがたの主であるアッラーを信仰しなさい。およそアッラーに何ものかを並置する人には、アッラーは楽園を禁じられ、その人の住まいは地獄の火です。不正を行なう人には援助者はないのです」 マスィーフとはイエス・キリストのことですが、ここにはマスィーフが言いましたと記されています。イエスが何を言ったのかといえば、「わたしの主であり、あなたがたの主であるアッラーを信仰しなさい。およそアッラーに何ものかを並置する人には、アッラーは楽園を禁じられ、その人の住まいは地獄の火です」と言ったのです。だからイスラームとキリスト教においては共に、唯一の創造主の他のものを崇めることは大罪なのです。残念ながら、クリスチャンの方々は、イエス・キリストが神であると言います。これは大罪なのです。聖書を読んでも、イエス自身が「私が神である」とか「私を崇拝しなさい」といった発言は一切ありません。本当はむしろ逆です。聖書によるとイエスは次のように言いました。

ヨハネによる福音書14章28節、「父はわたしよりも偉大な方である」。

ヨハネによる福音書10章29節、「父は全てに勝って偉大である」

マタイによる福音書12章28節、「わたしは神の御霊(みたま)によって悪霊を追い出す」

ルカによる福音書11章20節、「わたしは神の指によって悪霊を追い出す」

ヨハネによる福音書5章30節、「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままに裁くのである。そして、わたしのこの裁きは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされた父の、み旨を求めているからである」イエスは決して自分の神性を主張しませんでした。逆に、「わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされた父の、み旨を求めている」と言っています。つまりイエス・キリストは唯一の神のみ旨(つまり意志)に従う人であり、それをアラビア語ではムスリムと呼びます。イエス・キリストは唯一神に従うムスリムなのです。

使徒言行録2章22節には次のようにあります。「イスラエルの人たちよ、聞きなさい。あなたがたがよく知っている通り、神によって認められた人間ナザレのイエスは、神が彼を通して、あなたがたの中で行なわれた数々の奇跡と驚異と印により、神からつかわされた者である」とあります。だからイエス・キリストは人間であり、神から遣わされた預言者であったのです。イエス自身決して神性を主張しませんでした。ヨハネによる福音書14章24節いわく「あなたがたが聞いている言葉は、私の言葉ではなく、私をつかわされた父の言葉である」ヨハネによる福音書17章3節いわく、「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と記されています。

またイエス・キリストは神の子ではありません。クルアーン112章3節には「(アッラー)は産まないし、生まれたのではない」とあります。ルカによる福音書22章70節いわく「彼らは言った。では、あなたは神の子なのか。イエスいわく、汝らはそのように言う」と言って質問をかわしています。ローマ人への手紙8章14節いわく「神の霊によって導かれる人は皆、神の子たちなのです」とあり神の子とは敬けんな信者の比喩表現だとわかります。

イエス・キリストははっきり言っています。天国に入ることができる者はイエス・キリストを神と信じる者でもなく、イエス・キリストが人類の罪を背負って死ぬことでもありません。三位一体や贖罪(しょくざい)という言葉そのものは聖書に記載がありません。マタイによる福音書5章17ー19節いわく「わたし(イエス)が律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅びるまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだからこれらの最も小さい戒めの1つでも破り、またそうするように人に教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これを行ないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」あります。つまり、モーセに啓示された律法を完全に実行することがイエス・キリストの目的だったです。

マタイによる福音書19章16〜17節いわく、「ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、先生、永遠の生を得るためには、どんな善いことをしたらいいでしょうか。イエスは言われた、なぜ善い事についてわたしに尋ねるのか。善い方はただ1人だけである。もし命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」とあります。

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