日本人と超越的存在

Originally posted 2020-03-23 07:59:33.

日本教徒の祖と呼ばれるハビアンは儒教、神道、仏教、キリスト教を棄教した人物です。彼は儒教、神道、仏教、キリスト教の何を批判したのか? ハビアンの論理を知るとイスラームの論理との類似点が見えてきます。

1)破・儒教

儒教では、万物の根本となっているのが天地陰陽ということですけれども、そもそもそれを生じさせた主体は何か。儒教の教典ではどこまでも説かれないままです。その理由は、天地の創造主が存在することを知らないからであると、ハビアンは喝破します。ものごとの成り立つ根本を天地陰陽に置いていて、その作者を言わないことからつきつめていくと、堂々巡りの議論にしかなりません。

2)破・神道

神道はどうか。日本神話においては、天地開闢で、多くの神々が系図のように説明されています。日本書紀によれば、冒頭で国常立尊(クニトコタチノミコト)が現われます。注目すべき点は、国常立が天地を開いたのではなくて、天地が開いてそこから国常立が生じたと書かれていることです。つまり、日本神話においても、天地を創造した創造主のことは、はっきりとは書かれていないことになります。

3)破・仏教

仏教各宗が様々な教理を説くが、「釈迦や仏は人間にすぎない」「仏教の本質は空や無である」「仏教はすべての存在は自分の心が生み出したものである」と批判する。結局は一切が空と悟るのであり、たとえ成仏するといっても、その実は空無に帰することだから、仏教による霊魂の救済はあり得ないと結論する。超越的存在との関わりについて触れていない。

4)破・キリスト教

「破提宇子Deus destroyed」では「キリストは神でなく人だ」

「誰が頼んだのでもないのに無数の人間を造って地獄に堕し、永久に尽きぬ苦しみを重ねさせるのを大慈大悲のデウスと言えるの?」

「神が世界を創造して、全知全能だというなら、なんで悪魔なんていう存在を許すの?」

「アダムとイブが、甘柿を食べたぐらいで人類に罪を負わせるなら、デウスは慈悲深くないでしょ?」

「キリストが救い主だとするならば、人間の堕罪以降、その誕生の遅さはなぜ?」

「キリスト教的ゼウス」の否定であって、いちばん最初の人間を宇宙に生み出し存在せしめている、何か大きな力、人間の力を超えた大本の力の存在を否定していない。

2008年5月29日付け読売新聞に掲載された日本人の宗教意識調査で72%が「無宗教」と答えている一方、「人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めました。新聞の解説は、多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔さを大切に考える傾向が強いと述べています。

例えば、宇宙を観察すると、宇宙は極めて複雑・精妙・壮大な秩序と組織から成り立っている太陽や星の運行、動植物の構造、それらの相互連関など、あらゆるものがそれぞれの目的に合わせて精巧に設計されていることがわかります。

ニュートンやアインシュタインなど天才物理学者たちの多くは、有神論者でした。天才たちにとって神という超越的存在は自明であり、彼らは、純粋な数学的思考だけで、この美しい宇宙はどのように始まったのか?についての「神の設計図」や「神の数式」をディスカバリーすることに、これまでにない知的喜びを感じてきました。この「神の数式」が発見されれば、人間は自分達の言葉で、創造主の存在を確認することになるわけです。

クルアーンにおいてこの超越的存在をアッラーと呼びますが、アッラーは人間が彼の存在に気づくよう様々な印を散りばめたのです。イスラームのユニークな点は、神の存在を証明できるクルアーンという物的証拠があることです。そこで映像を見ながら、クルアーンに記された神の印を確認してみましょう。

製品にはそれを作る職人がいるように,この世界には宇宙を創造した超越的存在がかならずある。その超越的存在がなにであるか。人々はその超越的存在を天、理、老子、ブッダ、キリストなどに比べようとするがいずれも超越的存在ではない。超越的存在とはまず人間ではない。人間は造られたものであり、また生死を免れることができない。天は地と対になる造られたモノである。理とはその造られたモノにくっついた意味である。超越的存在とは形象をもたないが確実に存在し,天と人を造化し、理と気をめぐらせるものである。したがって天、理、老子、ブッダ、キリストは超越的存在ではありえないことになる。この点を日本教徒の祖ハビアンは見抜いていた。

超越的存在が何なのかについて書かれたものはありません。一方、周りを観察すると、世界は極めて複雑・精妙・壮大な秩序と組織から成り立っている太陽や星の運行、植物の花や葉や枝のつくり、動物の身体の構造、これらの相互連関など、あらゆる存在者がそれぞれの目的に合わせて精巧に設計されていることがわかる。このような複雑かつ美しい世界を設計したのが「人知を超越した存在」です。

3章190節曰く「本当に天と地の創造、また夜と昼の交替の中には、思慮あるものへの印がある」のです。

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